INICIAR SESIÓNリリアナがドレス帳を開く日が来た。
それは、誰かに命じられたわけではなかった。 王家監督官ヘルマンから、公爵家の支出再分類資料は届いていた。 リリアナの社交費。 教育費。 装飾費。 茶会準備費。 王太子妃候補としての体裁維持費。 そして、セレスティア夫人が「必要」と判断した細かな支出。 それらの一覧を見るだけでも十分だった。 数字は冷たい。 銀貨何枚。 金貨何枚。 仕立て代。 宝飾修繕費。 髪飾り代。 舞踏靴代。 季節ごとの外套。 茶会用手袋。 王宮挨拶用の淡色ドレス。 夜会用の刺繍入りドレス。 数字は、言い訳をしない。 けれど、数字だけでは分からないものもある。 そのドレスを着た日の気持ち。焼き菓子の焼き色見本が調理場に貼られた翌日、王妃基金の机には、まったく別の種類の紙が積まれていた。 甘い香りはない。 代わりに、湿った羊皮紙と、古いインクと、急いで書かれた文字の匂いがする。 支援申請書。 春挨拶会が終わり、公爵家の噂が一段落し始めたころ、王妃基金には新しい申請が増えていた。 理由ははっきりしている。 王妃基金が止まらなかったからだ。 不正が裁かれ、夫人会が揺れ、公爵家が監督下に置かれ、王太子府も再教育中。 それでも孤児院の屋根は直り、救貧院へ麦と薪は届き、薬草茶は配布前に止められ、使用人宿舎にも暖房費という欄ができた。 王都の人々は見ている。 貴族たちが笑っていても、現場は別の目で見ている。 あの基金は、まだ動くのか。 声を出せば、今度は届くのか。 そう思った者たちが、申請書を持ってくる。 だから、机の上に紙が増えた。 エレノアは、その山を前にして静かに息を吐いた。「増えましたね」 リリアナが隣で言った。 手帳はすでに開いている。 以前なら、紙の山を見ただけで逃げたくなっていたかもしれない。 今は、怖そうな顔をしながらも、逃げる姿勢ではなかった。「ええ
アデレード老伯爵夫人の伝言は、翌朝の調理場にまで届いた。 ――昨日の焼き菓子は、もう少し焼き色があってもよろしい。これは噂ではなく感想です。 その一文を読んだ瞬間、調理場の空気は止まった。 王都社交界で笑われたとか、菓子が一種類だったとか、贈答品を断ったとか、そういう話はすでに耳に入っていた。 調理場の者たちは、表の会場には立たない。 けれど、屋敷の中の声は意外とよく伝わる。 春挨拶会の菓子が一種類だったこと。 それを笑う夫人がいたこと。 だが、味は悪くなかったと言われたこと。 そして、老伯爵夫人が焼き色について言及したこと。 菓子係の若い料理人トマは、紙を読んだまま固まっていた。「焼き色……」 彼は呟いた。 隣で粉をふるっていた年配の料理女マーサが、腕を組む。「老伯爵夫人は、菓子をよくご存じだからね」「怒ってますかね」「怒っていたら、味には触れないよ」「でも、焼き色」「焼き色だね」 調理場の奥では、料理長バルトが黙って鍋を見ていた。 年季の入った大きな背中。 分厚い手。 口数は多くない。
春挨拶会の翌朝、噂はもう王都を歩いていた。 噂というものは、馬車より速い。 招待状より軽く、花籠より扱いに困る。 誰が最初に言ったのか分からないまま、朝の茶と一緒に広がり、昼には別の言葉をまとい、夕方にはまるで昔からの事実だったかのような顔をする。 ヴァレンシュタイン公爵家の小さな春挨拶会も、例外ではなかった。 北翼の小会議室には、朝から数通の私信と報告書が届いていた。 差出人はさまざまだ。 夫人会。 王宮女官筋。 公爵家の出入り商人。 庭師組合に近い老伯爵夫人の家令。 そして、王家監督官ヘルマンの情報確認係。 机の上に並べられた紙を見て、リリアナは顔をこわばらせた。「もう、こんなに?」「まだ少ない方です」 ヘルマン監督官は淡々と言った。 少ない。 これで。 リリアナは少しだけ椅子に沈んだ。 昨日の疲れが、まだ体に残っている。 花籠を断った。 飾り紐見本も断った。 菓子箱も断った。 薄桃色のドレスで立った。 笑われても戻さないと決めた。 それだけで十分疲れていたのに、翌朝にはもう噂の整理である。 社交界は、休ませてくれない。 エレノアは、いつものように紙を分類していた。 だが、その顔にもわずかな疲労があった。 マルタが無言で茶を置く。 今日は菓子も一つ添えられていた。 リリアナがすぐに気づく。「これは記録済みですか」 マルタが穏やかに答える。「はい。会議中の軽食として記録済みです」「
花籠は、受け取らなかった。 それだけなら、たった一行で済む話だった。 ――ベアトリス侯爵夫人より花籠持参申し出。贈答品一律辞退方針により受領せず。本人了承。返却。 受付の女官が記録した文は、簡潔だった。 だが、その一行が持つ意味は軽くない。 小さな春挨拶会の最中、リリアナは何度も受付の記録台へ視線を向けた。 花籠は、もう馬車へ戻されたはずだ。 それでも、そこに見えない花籠が残っているような気がした。 華やかな花。 春らしい香り。 「返礼不要」と添えられた、柔らかな罠。 以前のリリアナなら、喜んで受け取ったかもしれない。 綺麗だから。 せっかくだから。 相手の厚意だから。 断るのは失礼だから。 入口に飾れば、会場が少し華やぐから。 そう言って。 そして、その後に何が生まれるかは見なかった。 返礼。 例外。 他家からの追随。 関係維持費。 贈答記録。 また、見えにくい支出。 花は悪くない。 だが、花籠は扉になる。 ミリアム夫人の言葉が、今日ほどよく分かったことはなかった。 会場では、春挨拶会が続いている。 アデレード老伯爵夫人が、若い夫人たちに古いショールの話をしている。 クララ子爵未亡人は、庭師の覚書をヘルマン監督官へ資料として提出し、受領記録に署名していた。 エミリア伯爵夫人は、窓布の番号札について本当に興味があるらしく、リリアナの説明を聞きながら何度も頷いている。 そしてベアトリス侯爵夫人は、扇の陰から会場全体を見ていた。 花籠を断られたことを、腹立たしく思っているのか。
春挨拶会の朝、公爵家の庭には、派手な花飾りがなかった。 その代わり、冬を越した枝物が、細い花瓶にすっと挿されていた。 庭師が選んだものだ。 豪華ではない。 けれど、寂しくもなかった。 まだ固い蕾のついた枝。 淡く色づき始めた小花。 香りはほとんどないが、光を受けると枝先が静かに明るく見える。 リリアナは、小広間の入口でそれを見つめていた。「前より、ずっと少ないですね」 隣に立つエレノアが頷く。「ええ」「でも、なくてもいい、とは思わない」「そうね」「少なくても、春っぽいです」「庭師がかなり考えてくれたそうよ」 リリアナは、花瓶の根元に小さな札があることに気づいた。 ――庭枝使用。追加購入なし。庭師作業時間、通常管理内。 思わず苦笑する。「ここまで記録するの?」「庭師に無理をさせていない確認よ」「……大事ですね」 リリアナは、もう一度枝物を見た。 花は減った。 でも、誰かの無償の負担で飾った春ではない。 そのことが、今は少し誇らしかった。 今日、彼女が着ているのは薄桃色のドレスだった。 新しい刺繍は足していない。 胸元のリボンは整えただけ。 髪にはエレノアから借りた小さな銀のピン。 真珠の髪飾りは使わなかった。 鏡で見た時、少しだけ物足りなく感じた。 けれど、見慣れると悪くなかった。 以前より控えめで、少し落ち着いていて、それでもリリアナらしい柔らかさは残っている。
薄桃色のドレスは、思っていたより綺麗なままだった。 衣装箱から出されたそれを見た瞬間、リリアナは少しだけ息を止めた。 春茶会のために仕立てられた、あのドレス。 柔らかな桃色の布。 袖口に並ぶ白い花の刺繍。 裾に控えめに入った淡い銀糸。 当時のリリアナには、世界でいちばん自分に似合う服のように思えた。 いや、正直に言えば、今見ても似合うと思う。 そのことが、少し苦しかった。 嫌いになれたなら楽だった。 このドレスは過剰装飾です。 教育費名目では不適切です。 刺繍追加は赤分類です。 だから、もう見たくありません。 そう言い切れたなら、どれほど簡単だっただろう。 けれど、衣装係のエリスがそっと広げたドレスは、やはり美しかった。 リリアナの肌色に合う柔らかな桃色。 動くたびに春の光を拾う袖口。 母が「まあ、可愛い」と笑った日の記憶。 全部、まだそこにある。 北翼の小衣装室には、エレノア、リリアナ、マルタ、衣装係のエリス、そして記録係として若い女官が一人いた。 本来なら、公爵令嬢のドレス直しに記録係などいない。 だが今回は違う。 春挨拶会で着用する衣装は、王家監督下の支出再整理の一部でもある。 新調しない。 刺繍を足さない。 既存品を補修して使う。 その補修費を記録する。 新たな装飾費を発生させない。 言葉にすると簡単だ。 しかし、目の前にドレスが置かれると、簡単ではなかった。 リリアナは、袖口の刺繍に指先を触れた。「これ、やっぱり綺麗ですね」 声に、少しだけ罪悪感が混ざった。 エレノアは隣で静かに言った。







